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「 拓魂 第6号」 昭和48年12月25日発行

『県支部長辞任に当り
 東部地区同窓各位へお礼のことば』

県名誉支部長 田中 馨

◇惚れて入った拓大-◇

後藤新平伯は、拓大第三大学長であった事は、拓大戦後の同窓生でも誰でもが知っている。が然し日本ボーイスカウト創設の親であり、早朝であった事は拓大生には余り知られていない。台湾、拓大ボーイスカウトの因果については、拓魂第6号に記載したのでここでは省くとして、拓大入学以前に大日本少年団時代に籍を置いた私には、後藤新平伯の言行録に非常に感化、影響された。拓大も、ボーイスカウトも、開拓スピリットが共通した柱である。特に影響を受けた言葉に
『開拓は想像であり、実行は工夫による』

樺太で、貧乏で複雑な家庭で育った私には、南洋の新天地に骨を埋める活躍を心に描きながら一も二もなく拓大以外の学校は念頭になく、拓大に昭和十三年四月に入学、時の学長は第四代永田秀次郎先生でありました。

◇拓大の先輩と奥さん方に感謝!◇

在学時代の先輩、同期生間は語学科別はあっても、目的を同じくする心縁の絆によって結ばれた、肉親の親子、兄弟とはまた別な、兄弟関係があり、同期生間でもストレートの紅顔の美少年もいれば、子供が二人もいる蒙古帰りの親父もいるという、当時の他校でも余り類のないことで、今の時代では一寸考えられない同志的結合の間柄でありました。

在学中にまつわるエピソードや海外旅行の話などは、又別の機会に譲るとして、昭和十六年十二月大東亜戦争突入し、同時に第一回の繰り上げ卒業、直ちに拓務省管轄の南洋庁パラオへ赴任、本庁をはじめサイパン、トラックその他各支庁には拓大の先輩が相当多数それぞれの地位にいて、右も左も何も判らない新米の私には、仕事のことは勿論、私生活に及ぶ面倒を一切合切、先輩は勿論だが、先輩方の奥さん達が実によく気を遣ってくれました。

その後仏印、シンガポール、ジャワ、スマトラと足跡を延ばす処各地で先輩方の奥さん方に親身も及ばないお世話になった種々には、拓大の各地における先輩を語るとき、奥さん方の存在は忘れることのできない想出であり、後顧の憂いなく活躍できた先輩方の陰に奥さん方の内助の功は実に立派であると、年と共に敬服と感謝が深まります。

◇よき伝統とは高きより低きに流れ続ける!◇

過去の人生を振り返るとき、学生時代、パラオ時代、南方各地時代、終戦当時を通じ、恐らくこれからも・・・・私程拓大の同窓各位の恩恵を受けた者はいないと思っています。

そうした心縁のつながりを結んでくれた拓大は、日本一の母校であるとの恃を懐いているだけに、拓大は終生の母校である。戦中バリ島長官であった根本先輩が或るとき
『先輩、同窓諸氏から受けた感謝の気持ちは忘れるな!!然し報恩は直接本人にお返しする事は人倫に悖る。然しながら、それを独り占めにする事は天意に逆らう。水は高きより低きに流れるのが自然の理であり、途中で流れがせき止められると、水が腐ると同じく人間の心が腐る。感謝報恩の気持ちがあれば、他の同窓、後輩にその心を流すことが拓大精神であり、異民族協和の極致である・・・・・口云に』
忘れることの出来ない座右の銘としています。

◇お節介やき二十八年余のお詫びとお礼!◇

昭和二十一年七月、ジャワより家内の疎開先であった清水へ引揚げて以来今年まで丸々二十八年になりました。当地は再度南方雄飛を同志と共に夢を画きましたが、戦犯、公職追放等でその機を逸し・・・・・本籍も清水へ移し、今では名実共に静岡県人になりきっています。

『郷土は国家の縮図である』との大川周明先生の語録に思いをはせ、根本先輩の遺した座右の銘に従い、昭和二十二年学友会静岡県支部結成の下働きを始めて以来本年五月まで、時に幹事長、支部長として県内同窓の先輩、学友諸兄、特に東部地区支部とは、結成当初から特に関係が深く、それだけに出過ぎたお節介やら僭越な行動などを顧みて誠に忸怩たるものを覚え、非礼の数々を心から陳謝を申しあぐると共に、菲才非器の小生に寄せられた諸先輩、学兄各位の寛容なる御高志に対し、拓魂紙上を籍り厚く御礼申し上げ、各位の御健康と東部地区支部の弥栄を心から祈念申し上げます。

押忍

(昭和四十八年十一月十一日記)



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