「 拓魂 第49号」 平成30年9月29日発行

『カボチャ食堂のまちづくり』

学部78期 加藤 育朗

私が住む磐田市見付は、旧東海道の宿場町、古くは遠江国府、守護所の所在地として、東西文化の交流点・東海道の要衝として栄えてきたまちである。

平成二十五年、創刊四十年の歴史を持つ地元の地域情報誌・NEOぱんぷきん編集長の小林佳弘氏を講師として、眠っている歴史文化の遺産を『まちづくり』に生かして行こうと、『カボチャ食堂』という名の勉強会が始まった。

毎月第一火曜日の夜に開かれるこの勉強会は、『食堂』という名が示す通り、一回千円の参加費で、鍋料理とオードブルが提供される。

講座の後、食べながら飲みながら、寛いだ雰囲気の中で、地元の歴史や文化を語り合うのだが、具体的な「まちづくり・まちおこし」の妙案がそう簡単に浮かんでくる筈はない。

ここから生み出される一番の宝は、ここで出会った人と人との繋がりではないかと思う。既存の活動にも新たな参加者が加わり、別な視点からの見直しが始まりつつあるのも一つの成果であろう。


【『カボチャ食堂』名前の由来】

明治初期に見付三本松で菓子商を営む前島傳之助氏が、尾張方面より在来種のカボチャを導入した。このカボチャの品質がとても良かったので、栽培は拡大され、昭和に入る頃には、東は沼津から西は豊橋に至るまで出荷され、地域を代表する特産品『見付かぼちゃ』に育っていった。

見付地区では、安土桃山時代よりカボチャが栽培されていたという記録がある。(「しずおかの在来作物」(稲垣栄洋静大教授)) 謂わばこれが第一復活期と言えるのだろう。

戦中から戦後にかけて食糧難の時代を、見付かぼちゃは地域住民の空腹を満たした。「毎日食べた時期もあった。他に食べる物がなかった。」と、元薬草公園職員の寺田氏は終戦当時を振り返って語る。

やがて西洋カボチャの普及により在来種は衰退し、見付かぼちゃも市場から姿を消した。

『カボチャ食堂』の名は、その見付かぼちゃに由来している。講師の小林氏が発行する情報誌「NEOぱんぷきん」の名称にも通じるものがある。

見付かぼちゃの栽培が産業として華やかな頃に思いを馳せ、再び賑う郷土を作っていこうという思いが込められているのかもしれない。

因みに、見付かぼちゃは今再び復活の道を歩み始めている。 十数年前、地元企業を定年退職した鈴木文雄氏が、史料を頼りに愛知県で見付かぼちゃに極めて近い種類の種を探し当て栽培に成功。今、試行錯誤の中、改良を重ねている。私も今年六月から特非法人見付かぼちゃ保存会の理事として、この活動に参加している。

種子法が廃止され、種苗法が改正された今日、その土地の気候風土に根差した在来種の復活は重要な意味を持つ。農林水産業は他の産業と同じ土俵で競争に曝されるべきではない。産業である以前に社会基盤(インフラ)である。食料と国土は安全保障の原点であるという認識が必要だ。  


【見付大久保氏と明治維新】

カボチャ食堂の会場となるのは、見付宿場通りのほぼ中央、現存する日本最古の洋風小学校建築で知られる国特別史跡・旧見付学校の西隣に位置する大久保邸である。

大久保家は、明治初期まで淡海国玉神社(遠江国総社)の神主を務めた家系で、初代は徳川十六神将のひとり、大久保忠佐(ただすけ・元亀元(一五七〇)年就任・後に初代沼津藩主・講談等で知られる天下のご意見番大久保彦左衛門の兄)である。

遠州国学盛んなりし幕末期、十三代神主・忠尚(ただなお)は、自宅敷地内に私塾や私設図書館『磐田文庫』(国特別史跡)を開設し、地元住民への教育に尽力した。その頃の門弟は二百人を超えていたという。

慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いでの幕府軍敗北第一報が大久保邸にもたらされた。偶々居合わせた津毛利神社の桑原真清など他の神官と諮り、その後戊辰戦争に従軍する『遠州報国隊』結成への動きへと繋がる。

見付から約半里南には、遠江、駿河、三河、甲斐四ヶ国の天領を支配下に置く中泉代官所があり、討幕の動向に対する監視の目は厳しかっただろう。大久保邸には天井裏に隠し部屋があり、報国隊結成の密談にも使われたという。カボチャ食堂開催日や、催事の時の公開日に、私も何度か拝見したことがある。

二月二十一日、遠州各地から神職を中心に、総勢三百六名を集めて『遠州報国隊』が結成され、忠尚は留守部隊として、資金や物資の調達などの役を担った。

忠尚の息子・初太郎(後に春野/変名・堀江提一郎)は出征部八十七名の中心的な役割を担って従軍し、同年六月二日に江戸城西の丸大広間において挙行された戊辰戦争官軍戦没者の招魂祭では祭主を務めた。

十一月の報国隊解散後、初太郎は、軍務官書記、兵部大録と、着々と出世の道を歩み始めていた。大村益次郎に嘆願し、招魂社設立にも尽力した。

翌明治二年六月二十九日、九段の地に東京招魂社(現靖国神社、明治十二年改称)が設立された。招魂社での最初の招魂祭の祭事主宰を、父忠尚が務めている。

初太郎は、明治三年から五年間フランスに留学(変名・堀江提一郎)。帰国後は、大久保春野として陸軍に出仕。明治二十三年には戸山学校長、翌二十四年に士官学校長、日露戦争には第六師団長・中将として奉天会戦に軍功をたてる。その後、薩長以外では初の陸軍大将として韓国併合時の韓国駐箚軍司令官(併合後朝鮮駐箚軍)など、要職を歴任した。

明治になって大久保家は、春野の妹繁子が養子・忠利を迎え、淡海国玉神社第十四代神官を継ぐ。

明治五年学制発布を受け、忠利は、領地の一部を寄進して、学校建設に寄与する。現在の国特別史跡・旧見付学校である。  


【講師持ち回りの新体制へ】

平成二十八年四月、講師を務めていた小林氏が体調不良により急遽辞任したため、講師は持ち回りという事になった。会員はそれぞれ専門の分野で活躍してきた逸材揃いなので、講師役には事欠かない。

考古学を専門とする大島氏は、磐田原台地に集積する旧石器時代の遺跡や、見付から出土した中世最大規模の墳墓群について。県食糧事務所に勤めていた今村氏は、食をテーマにした町おこしの実例を具体的に伝えてくれた。郷土史家の岡部氏からは、終戦時国運を左右したとされる、磐田市の鮫島海岸に不時着した緑十字機の話や、三方原合戦に繋がる緒戦、一言坂の戦いの真相、江戸時代の大名茶人として知られる松平不昧(松江藩主)と酒井宗雅(姫路藩主)が見付宿で出会い、茶会を催した話など、興味深い講座が目白押しであった。

二回目の講師の順番が私に回ってきたのは今年の夏の事。拓大とも縁の深い『西郷隆盛」を題材に選んだ。西郷隆治先輩(二十一期柔道部・静岡県出身の元理事長狩野敏先輩と同期)、西郷隆秀先輩(二十七期応援団・元理事長)と、御令孫のお二人は我々の先輩である。  


【西郷隆盛と征韓論】

通史では、西郷隆盛が征韓論を主唱したとされているが、実際には礼節を以て交渉に当たろうとしたのであって、謂わば『礼節外交論』である。西郷が征韓論を主張したことは公式には一度もない。ただ、強硬な征韓論者であった板垣退助と交わした書簡が、その根拠という説がある。「西郷が一人で交渉に行き、若し殺されれば派兵の口実が出来る云々」というものである。しかしそれは、西郷説を支持する様説得するための工作であったとみるべきだろう。

西郷人気を背景とした征韓論は、日清日露の戦役に向けて、国論を後押しして行く。実はこれこそ「西郷征韓論説」を流布し定着させた目的だったのかもしれない。

ところで、征韓論争を主軸とし、六百人もの大量の辞職者を出した『明治六年政変』の舞台裏では、何が起こっていたのだろうか。

明治四年十二月、岩倉使節団が日本を発って間もない頃、琉球王朝へ年貢を納めた帰途遭難した宮古島島民が、台湾南部で惨殺される事件(牡丹社事件)が発生。台湾は南方経略の重要拠点であり、放置しておけば琉球における日本の主権が問われる重大問題である。動き方一つ間違えれば、事為す前に清国の反発や第三国の介入を招きかねない。

政府は、巧みな外交交渉の一方、征韓論争に内外の関心を集中させつつ、台湾出兵の準備を進め、明治七年五月、西郷従道率いる遠征部隊は、台湾南部に侵攻し、約一カ月で鎮圧した。

清国や英国から激しい反発に遭ったが、大久保利通の粘り強い交渉と、英仏の協力も得て、日本の出兵は義挙である事を清国が認め、琉球の日本帰属が国際的に承認される事となった。

歴史家の落合莞爾氏は、征韓論争を敢えて過熱化させた意図は、台湾出兵隠しであると断じている。

また、鹿児島出身の歴史家・窪田志一氏は、西郷が自らの遣韓に強く拘った理由については、西郷の私的事情があったとしている。 窪田説では、西郷は真方衆(まがたんし・島津家の隠密集団)棟梁・岩屋梓梁(いわやしんりょう)の末裔で、岩屋梓梁の事績は、国内では過去の権力(豊臣・徳川)により抹殺された為、朝鮮にその痕跡を求めようというものだ。《紙面の都合上、詳細割愛》

明治四年十一月十二日に日本を発った岩倉使節団(明治六年九月十三日帰朝)の留守中は、西郷が実質の首相の役割を果たしていた。

岩倉使節団の目的は、大きく三つ挙げられている。①条約締結国へ国書提出。②不平等条約改正の予備交渉。③欧米事情視察。(Wikipediaより)

留守政府は、制度改革と主要な人事変更を行わない約束であったが、改革や人事は矢継ぎ早に実施されていった。実はそれが岩倉使節団のもう一つの目的であったと落合莞爾氏は語る。新政府樹立後の大久保利通は、保守専制化傾向にあり、数々の改革が停滞していた。大久保を連れ出して止まっていた改革を進めるというのが、隠された目的だったと言う。

主な目的として掲げられている『条約改正予備交渉』については、法整備が全く進んでいない状況では、土俵にも乗らないことは自明の理であり、全権大使・岩倉具視は当然承知の上の事。在米中に大久保利通と伊藤博文を、条約改正国書委任状取得のために一時帰国させているが、これは、条約改正交渉に真実味を持たせるためと、在米某要人と岩倉との極秘会談を大久保に悟らせないためだろう。

明治維新はまだまだ謎が多い。現代人の知識は、明治政府と御用史家が隠蔽・捏造・歪曲を重ね、その上に小説家が書いた物語を真実と錯覚。更に甚だしきは、娯楽番組大河ドラマをそのまま史実と誤解している人も少なくない。一つの情報を鵜呑みにするのではなく、多角的に検証する姿勢が何事においても大切である。  


【カボチャ食堂と今後の見付宿】

カボチャ食堂会場の床の間から、大久保春野の胸像が、いつも我々を見守っている。明治維新に関わる歴史の舞台となった大久保邸を会場に学ぶことが出来る意義を、今後も重く受け止めていきたい。

最初の講師であった小林氏は、今は健康も回復し、明治時代に報徳運動の拠点となった見付の報徳社を新たな会場とし、歴史講座を始めており、私を含め、何人かのカボチャ食堂の会員も参加している。

『カボチャ食堂のまちづくり』の基本は、まず地域の歴史文化を学ぶ事から始まる。そして学ぶ中から、人と人との繋がりが生まれ、新しい発見がある。

磐田市見付には国の無形民俗文化財に指定されている『見付天神裸祭』の様な伝統的な祭から、東海道四百年祭を契機に始められた『遠州大名行列・舞車』や『見付宿たのしい文化展』など近年に作られた新しい行事も多く、会員の中には、元々関わりを持つ人から、カボチャ食堂を契機に新たに加わっていく人もいる。

まちづくりは、何か新しい事を作り出すだけではなく、既存の活動を見直し、強化し、味付けをし直して行く事も重要な事ではないだろうか。 夫々の地域でまちづくりに携わる皆さんのご参考なれば幸いである。  

【参考文献】

  • 「再考見付大久保邸」(見付宿を考える会)
  • 「日仏交流黎明期の解明」(明治大坂兵學寮佛國留學生史研究会)
  • 「伝統野菜見付かぼちゃの歴史(吉岡正明)
  • 「NEOぱんぷきん」(小林佳弘)
  • 「水戸っぽBlog(八十四期・深川隆成拓兄)
  • 「日本教の聖者西郷隆盛と天皇制社会主義」他落合秘史シリーズ(落合莞爾)
  • 「西郷征韓論は無かった」(窪田志一)

(終)



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